【Hacoa-vol:1/5】20年で福井を代表するトップブランドに。Hacoaを築いた男が、経営と人生を語る。

Hacoaは越前漆器の木地技術を発展させた、Made in Japanの木製雑貨・デザイン雑貨を作るメーカーですが、木製プロダクトにとらわれず、空間全体へのアプローチを視野にいれたものづくりを、デザインから製作まで一貫して行っておられます。

「越前漆器」は福井県鯖江市周辺で作られている漆器で、約1,500年の歴史を持つ国内の一大産地です。漆器の技術を転化したメーカーは全国を見渡しても珍しく、Hacoaがここまで全国に拡大し、快進撃を続けているのは、ブランド設立者である市橋人士さんの掲げるビジョンと経営哲学によるところが大きい。

市橋さんの木製雑貨人生は、漆器業を営む家に生まれたことから始まった。小学生の頃に廃業した事もあり、高校卒業後は村田製作所に入社し2年間勤務。その後に樹脂成型会社に5年間勤務した後、奥様のご実家である有限会社山口工芸を継ぐため、職人として入社。2001年にHacoaブランドを立ち上げ、僅か20年で会社をここまで成長させた。(2019年に社名を「有限会社 山口工芸」から「株式会社 Hacoa」に変更)。

市橋さんが職人として、また長年の経営から得たものは何か、Hacoaは、どのようなビジョンで経営されているか、そこで働くスタッフはどのようなスタイルで働いているのか。市橋さんが発する言葉は、未来を切り開く金言にあふれている。

Hacoaの前身である山口木工所にて修行

――まずは、市橋さん自身のことについてお聞かせください。

1969年に鯖江市の河和田地区で生まれ育ちましたが、小中学校の5年間は、福井市で暮らしていました。その後、河和田に戻ったときは、男子は丸坊主。坊主では無い都会からの転校生が来た事もあり、周りのみんなは、ざわついていましたね (笑)

中学校では大学へ行く学力はあったけど、家庭の事情もあり、早々に大学の進学は諦めました。その為、高校は進学校を選ばなかった。すると、担任の先生に親と呼ばれ、嘆かれました。高校卒業後は、就職すると決め、コンピューターのプログラミング(情報処理)を身に付けたいと商業高校に入学しました。高校ではサッカーをしていて、当時の大学チャンピオンだった大学から推薦が来ましたが、家庭の事情もあったし、現実的に難しいと思い断りました。

卒業後は村田製作所に入社し、新分野の部署に配属され勤務しました。自分でいうのも変ですが、同僚が機械を1台動かすのにあくせくする中、手先の器用さと負けん気の強さもあり、1年で5種の機械を動かしていました。村田製作所は3交代勤務で夜勤もあった事で、夜勤の昼間は、地元のプラスチック会社で働き、今でいうところのダブルワークをしていました。そこの社長に認めてもらって、今の手取りを保証するからうちに来いと誘われ、仕事を一本に絞りました。収入が増え、生活が安定した事から、結婚をしました。今のかみさんとは、小学校からの同級生です。

――お若い結婚ですね。

20歳で結婚し、義理の父親で現会長である山口怜示さんから、家業である「山口木工所」を継がないかと話がありました。そのとき、かみさんの実家から給料を貰って暮らすのは考えられないと思い、断ったのですが、実家に何度も遊びにいっているうちに、だんだん面白そうだなと思い始めたんです。

ーーそれはなぜですか?

当時、プラスチックの成形技師をしていて、金型をセットし、樹脂が出てくるまでの段取りをした後は、パートのおばちゃんにお任せるといった感じで、手仕事とは相反した工業製品の世界で働いていました。会社がやっているものづくりと、かみさんの実家がやっている漆器のものづくりが全然違っていて、自分も自分の手でものづくりをやりたいなという想いが湧いてきました。

そんな想いから、義父に一度断った手前もあり、3年だけ飯を食わしてくださいと頭を下げ、25歳のときに入社しました。義父からは、ここで3年修行して何をするんだと言われたときには、漠然と「何か作って独立します」と答えたら、「3年で出来るわけがない。一人前になるには10年掛かる」と言われ…。一人前になるまでの時感覚に疑問を持ちましたね。しかも、手取りが29万から12万に減り、そんな金額でも給料を「出してやっている」という職人の世界の金銭感覚も悔しくて…。

ーー漆器職人は10年間の下積みが必要とよく聞きます。

この世界に入るときに、職人は時間を大切にしろと言われたこともあり、持ち前のガッツで、10年を3年でやってやろうと、人の3倍、一日20時間働いて、時間のコントロールを心がけていました。状況はどうあれ、与えられた環境の中で最高のパフォーマンスを出せるか。子どももいたし、親には頼れないし、自分の力で成し遂げるという…そんな自分との闘いでした。

だけど、3年経ってわかることと、10年経ってわかることは違いましたね。結果的に10年経って一人前ということは、ある意味で10年の節目でよくわかりました。

東京へ通い、感性を磨く

28歳くらいから東京へ行くようになりました。「産地」というのは歴史があればあるほど閉鎖的で情報が入ってこない。自分自身で感性を磨いて新しい情報を手に入れたかったんです。

ーー東京ではどんなことをされていたんですか?

先ずは、自分で作ったものをスポーツバッグに入れて、漆器を置いてもらえないかと1軒1軒飛び込み営業をしていました。当然、お金が無いから夜行バスで東京へ。朝6時に新宿駅に着き、歩いて青山や目黒通り(家具屋通りと呼ばれるほどインテリアショップが多く集まる)を巡りました。港区のホテルは高い事もあり、カプセルホテルや素泊まりの安い宿に泊まる為に銀座線に乗り、上野や御徒町に行きました。満室で部屋が無く泊まれないときは、公園で野宿したり…駐車場の車の陰で寝ていたこともありました。

そこで寝ているとホームレスのおじさんたちがダンボールを貸してくれたこともありました(笑)。そのよく寝ていた駐車場が、後に「2k540(ものづくりをテーマとしたアトリエショップが並ぶ施設)」となりました。

寝泊りしていた駐車場が、まさか、Hacoaの1号店になるとは思わなかった。出店の誘いを受けたときには、あんなに汚い高架下に商業施設ができるのかと、びっくりしました。

その当時、この中目黒周辺(取材をしたKNOCKING ON WOOD 中目黒店)も、飛び込むお店を探して、細かい路地奥まで全て歩いていたので、この場所にも土地勘ができました。あの頃は、中目黒周辺でデザイナーやクリエイターたちと夜な夜なデザインを語るような飲み会をしていましたね。

ーー売り込みと同時に仲間づくり…職人っぽくないですね。

その頃、産地の職人では自分しか東京に出てきてなかったと思います。人と人との繋がりから、百貨店問屋からも「個展をやってみないか?」と直接お誘いが来たときは、何を作ろうかと喜び、胸を弾ませて地元に戻りました。しかし、地元に戻った2日後に、百貨店などに漆器を卸す産地問屋から電話があり「職人が前に出るな、産地のルールを守らんといかんよ、潰すぞ」と怒られました。

問屋さんに怒られた事もあり、漆を塗らない木地の新商品を作り、問屋に商品を持っていくと、木地を赤で塗るか黒で塗るか…と言う。木地のままでも綺麗なんだから塗らなくても売れますと言うと、「塗らな価値ないやろ」と云われ、この産地は「塗る事に価値があり、塗らないものは価値が無い」と気づきました。漆を塗らない商品なら、産地問屋さんは何も文句は言わず、塗らない商品は売らないだろうと。それから、漆を塗らない木の商品を作り、自分で売るようになりました。

ーー今のスタイルが生まれた瞬間ですね。

当時は、漆を塗らない雑貨商品を作っていると、産地問屋さんからは、「そんな雑貨もん。売れるんか?変わっているな」とからかわれて来ましたが、東京では、徐々に取り扱いをしてくれる店が増えてきました。

当時、私が作る商品に「ビッグトレー」という漆を塗らない木地のトレーがあり、12,000円の価格で販売していて、よく売れていました。隣には漆で塗られたお盆が5,000円で販売されていて。漆を塗っていない方が高く、沢山売れている事に気が付かなくてはいけないのだけど。産地問屋は百貨店問屋の依頼を請けて漆器を作っている事もあり、末端の消費者の意見や嗜好は届かず、市場の動向や情報に乏しい事がわかりました。

自分の運が良かったのは、産地問屋の誰もが漆を塗らない商品に興味が無かったところです。売ってくれる人がいなかったから、自分で売ることができました。

産地問屋が自分の商品に食いついていたら、産地のルールや既存システムから抜け出せなかったと思います。昔はそういう流通形態が普通だったんです。今でこそ、SPA*を目指せと盛んに言われていますが、うちは1998年からSPAでした。今はD2Cと言った方がしっくりきますね。

*specialist retailer of private label apparel.
商品の企画から製造、物流、プロモーション、販売までを一貫して行う小売業態のこと。アメリカではアパレルのGAP、日本ではユニクロ(ファーストリテイリング)がこの方式で急成長した。

ーー産地の中では異端児的な存在、しかし時代の最先端だったんですね。

産地の人からは、アイツは変わっていると言われる事も多かった。色んなことを提案して、改革してきたからかな。地元の河和田小学校の時計には、漆器組合青年部のみんなと製作し、提供した様々な形や色のフレームが付いています。それは、時計を見て、時間を気にする癖を身に付けて欲しいという自分の提案が実現しました。その事もあり、河和田小学校はノーチャイムなんです。時間を大切にすること、無駄にしないことは職人になって身体に染み付いているので、時間を気にして、時間大切に行動することを子どもたちにも学んでもらえればと考えたのです。

私はこの職人の世界に入る際に親方から「職人は時間を大切にせえよ」と最初に云われました。世界中の誰もが同じ時間を与えられ、生きている。限られた時間を自身でコントロールする事は自分の為になり、時間の使い方が人との差となります。そんな事を子どもたちにも伝えたかったんですね。

人生のターニングポイントに出会う

鯖江市には社会人を対象にしたデザイン再教育の場として「SSID(Sabae School of Intelligence Design)」という講座がありましたが、当時デザインという言葉を知らなかった私は、前期の終了製作を発明家の集まりかと冷めた目で見ていました。

ーー市橋さんにもそういう時代があったんですね。

ただ、途中から、だんだん気になってはいたんのですが、お金が無くて年間数万円の会費が払えなくて…(笑)。現会長にデザインの勉強がしたいと頼んだら、快くOKしてくれて通えることになりました。

SSIDは1年で工業大学の3年分を行うというカリキュラム。働きながら学ぶには、壮絶な厳しさでしたが、濃密でした。川崎和男氏を専任講師に、年間60回の講義がありました。入学時は40人近くいた同期が、卒業時には、11人しかいないくらい、本当に厳しい講座です。毎週土曜日の19:00~22:00が講座なんですが、延長して日が変わることは毎回、当たり前。講義が終わってからもメンバーで熱く話をしていると、もう朝です。週1回の講義だけど、次回までの必須課題は出るし、プレゼンの度に駄目出しされて、叩かれるし…涙を流していましたよ(笑)。

ーーかなり斬新だったと聞いていますが。

田舎の職人には刺激的な事ばかりでした。インターネットが世に登場したばかりのときに、電話回線を繋いで、講師が名古屋からテレビ会議で講義を行いました。今でこそ日常の事ですが、当時は宇宙船と繋いでいるかのような不思議な感じでした。SSIDでパソコンも覚えたし、デザインのなんたるかも教わった。特に、今に活かせているのはプレゼン能力。職人だったから人前で話すことなんて無いし、最初の一言が出てこない事で、数分間立ち竦むくらいに苦手でした。嫌だったけど、話をしている最中に、次に話す内容を頭で組み立て、オチをつくる技術を教わり、自信をつけた。

SSIDでは、流行っているものを意匠的に作るデザインではなく、「デザインの本質とデザインという思考」を学びました。SSIDの1年間で手に入れたことは「自信」ですね。それが一番大きな収穫でした。

カリキュラムの中で嫌だったのは色彩の授業。普段はナチュラルカラーの木しか見ていないから、カラフルなカラーチャートを見ると、酔ってしまい吐き気がした(笑) 未だに色を使うのは苦手かもしれません。

ーー好き嫌いがはっきりして、市橋さんのカラーが出たのですね。

東京へ足を運んだことに加え、デザインを修得して自信が付いたこと。これが、人生のターニングポイントだったと思います。

SSIDを修了して10年後くらいに「DESIGN TOKYO」という展示会で、恩師の川崎先生と久々にお逢いし、「俺の教え子の中で一番出世したな」と褒められたとき、ありがたいな、報われたと思いました。今、Hacoaが商品企画から販売までを内製化できているのはSSIDを受講したおかげです。伝統工芸の世界でいち早くSPAに乗り出し、全国展開を成し遂げたレアケースとして、成功したと云われるのは、デザインの本質と技術を修得したからだと思います。

SSIDでのターニングポイントを迎え、2001年に有限会社山口工芸にて「Hacoaブランド」を設立しました。

※次回に続きます。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です