尾花屋 佐々木一家 | 親が作った地域との関係性が、いま子どもに生きている。
いつもは鯖江市の魅力的な仕事と働き方を紹介している「さばえの仕事図鑑」。
働くのは良いけど、実際に住んで子育てをして、となると大変なんじゃないか……と考えておられる方もいるのではないでしょうか。
生活環境を変えることはそう簡単ではありません。仕事も暮らしも、すべてが理想通りというのは難しい。いざ住んでみると、その土地の魅力の裏に厳しさが隠れていることもあります。
実際に鯖江市に暮らし、子育てをする方々は、地域でどのように暮らしているのでしょうか。今回は河和田地区に住む佐々木さんのケースをご紹介します。
お話を伺ったのは佐々木春喜(ささき・はるき)さん62歳、はるかさん32歳、三徳(みのり)くん1歳のご家族。誰もが驚く年の差夫婦です。
春喜さんは1959年に、鯖江市に編入されたばかりの河和田地区に生まれ、実家を活かして「尾花屋」を運営。はるかさんは2015年に住み込みながら尾花屋内にWarashi Cafeをスタートし、結婚の後、移住されました。

尾花屋は入りにくいけど、ふらりと引き寄せられる魅力がある場所です。鯖江市に移住してきて離れに1ヶ月ほど住んでいた人がいたり、就職が決まるまでの期間を過ごしたり。
県外から来た人がゆったりと関われる場所で、妻のはるかちゃんも、過ごしているうちにふらりと移住した一人です。
尾花屋は河和田の中心地にあり、何をやっているか説明が難しい場所。まちライブラリー兼イベントスペースであり、Cafeもあり、地域のママたちが集まる憩いの場でもある……。
今回の取材を経て、地域に関わりながら子育てをすることの楽しさを教わった気がします。どの都道府県も「社会全体で子育てを見守り支える」とは言いますが、現実にはどこまで実現できているのか怪しいもの。ですが、ここには確かにあるなと感じました。子育てについて悩んでいる方にも、これからの方にも読んでほしいと思います。
地元に全く興味が無かった、放蕩息子の青春の日々。
春喜さんは昭和57年に大阪から河和田へUターン。帰ってきた頃は地元にも家のことにも全く興味が無かったそうです。そんな春喜さんが、今では実家を改装して「かわだ尾花屋まちライブラリー」をつくり、結婚して子育てをしています。そこにはどのような変化があったのでしょうか。春喜さんの半生を追い、見ていきたいと思います。

この場所は105年前、先代のじいさんが福井城下から河和田の尾花町に引っ越してきて、現在の場所に雑貨と駄菓子の店を構えました。
その後親父が生まれ、親父は渋谷の宇田川にあったテーラーで丁稚奉公をした後、河和田に帰ってきて紳士服屋を開きました。婦人服の縫製技術を持つ母と結婚して婦人服も取扱い始め、商売が起動に乗ったと聞いています。
学校を卒業して東京で2年間服飾の修行をし、その後大阪のブティックで店長になり、相当な売上を叩き出したという春喜さん。周囲からも注目され、営業マンやデザイナーが次に売れるものは何だと、情報をもらいに訪ねて来るような状況だったのだとか。

その頃親から、鯖江でブティックをやらないかという声がかかり、大阪から戻ってきてブティックを10年間やりました。バブルが弾けた頃だったので経済状況が悪く、結局赤字撤退してしまいましたが、その後宅急便で働いて赤字を返済しました。
20代を仕事に生きたので、30代は違うものに熱中したいと思い、ヨットを始めました。かなり熱中していて、お金も無いのに年間170日ほどヨットで海に出ていたんです(笑)
その頃、岐阜の気功教室にも通っていました。福井から来る生徒が珍しかったようで先生に良くしていただいて、10年経ったら上級コースの先生になっていました。だんだん面白くなってきて、東京六本木にあるシンフォニーホールをはじめ、県内外で指導するための教室を作りました。うちの気功は子宝気功なので、なかなか子どもが出来ないという方が来て、しばらくしたら子どもができてを繰り返しました。
気功の師範として、ずっと仕事を続けていくと考えておられた春喜さん。父親の介護と並行されている中で徐々に具合が悪くなっていき、介護に専念するため教室数を減らしていったそうです。
両親が亡くなったことで、否が応でも意識するように。家への価値観が変わり続けた日々。

僕は、親父が死ぬまでこの家をずっと負債だと思っていました。家の維持には固定資産税もかかるし補修もしなければならない。過去に東京や大阪に住んでいて、どこにいても面白かったから、河和田に帰ってきたことをネガティブに思っていたんです。でも、親父が死んで葬式など一段落して、家のことを考えたときに、突然「この家を継がなきゃ」という思いが溢れてきました。
人間が住む空間なんて小さい部屋があれば十分なので、親父たちが暮らしていたままの状態で気功教室をしてもよかった。でも、あるとき家の耐震について調べたときに、このままでは道路側に倒れることがわかり、筋交いや補強材を入れました。他にも天井が全面漆塗りになっていることに今更ながら気づいて驚き、天井を全面見せられるようにしたり。徐々にDIYを進めていきました。河和田アートキャンプの存在も大きくて、若者が地元でにぎやかに活動しているのに自宅が物置になっているのはどうかと思いました。
改装中に友人のボーカリストが遊びに来て、座敷が音楽ステージになるんじゃないかと話していたら、急遽ネイティブアメリカンMark Akixaさんのライブが決定。まだ床もカウンターも無かったけど、60人くらいの人で溢れました。自宅に人がたくさんいることに目から鱗でした。この家は負債だと思っていましたが、実は資産かもしれないと気づいたんです。空っぽだから人が入るんだと、何でも入ることの大切さに気づきました。そのうちに、近所の方が忘年会で使ってくれたりして、地域に認められていきました。
2015年にははるかさんが当時勤めていたカフェが閉店したことから、尾花屋でカフェをやってみないかと提案した春喜さん。はるかさんは住み込みで準備し、年末にカフェをスタートさせました。
(warashi cafeは尾花屋まちライブラリーのカフェコーナーという位置付け。イベント時の食事提供がメイン。)

若い娘を家に引き込んで、本人からはとんでもないクソ親父だと思われていたかも(笑)
はるかちゃんのことは大切にしたいと思っていたので二人の関係性を考えていましたが、ずっと一緒に暮らすなら結婚という形が妥当だなと話し合って決めました。ご両親含め親戚全員年下という状況なので、100人中100人が反対すると思うけど、結婚しようと。はるかちゃんのご両親にも説明をして、お父さんは快く、お母さんはしぶしぶ受け入れてくれました。
はるかちゃんが妊娠し、助産院では女の子と言われていましたが、5ヶ月定期検診で男の子だとわかり、茫然自失で家に戻ってきました。これから生まれてくる男の子が4代目だということに気づいた途端に「引き継がねば」という気持ちになりました。今は性別なんて関係無い時代ですが、不思議なものです。そのとき、家への価値観がさらに変わりました。ちゃんと屋号を残して、次世代に渡していきたいと思ったんです。
社会全体で子どもを育てるとはどういうことだろう。尾花屋を開いてわかったこと。

尾花屋を作って地域に開放したときに、色々な方からうちの両親が地域とどう関わっていたかを聞く機会がありました。
うちの母親は悪口を言わず、いつもニコニコ話しを聞いている人だったので、悪く言う人はいなかったそうです。親が関わってきた人やその家族に三徳がお世話になっていて、親が作ってきた地域との関係性が、いま子どもに受け継がれて生きているのを感じます。代々ここでしっかりと商売をして、生活に困った方には服代とお金でなく米を交換したり、出世払いにしたり。色々なことがあったのだと思います。

自分たちも尾花屋を通して、周りにしっかりと還元していきたいと思っています。両親が亡くなって、残されたのは家や屋号などの形だけだと思っていたけど、そうじゃなかった。周りとの関わりが続いている。自分も雑なことをせず周りを大切にしていたら、三徳やさらに五代目に続いていくでしょう。いろんなことが折り重なって田舎は出来ているんだなと、尾花屋を開いてからわかったんです。
子どもができて、「一人の生命が生まれるということは、自分だけじゃなく周りに喜びを生む」ことがわかったと話す春喜さん。地域に開いた子育ては、自身にとっても子どもにとっても幸せなことであると感じました。
コミュニケーションは苦手だけど、子どもと一緒に自分も可愛がってもらえる環境が心地良い。
はるかさんの視点からもお話をうかがいました。
はるかさんは福井市の生まれ。26歳のときに尾花屋に住み込みはじめ、鯖江市に移住されました。

先生(春喜さんのことを先生と呼ばれています)との出会いは、福井の私の実家の近くに教室があって参加をしたのがきっかけです。ドラゴンボールが好きで、気功に通ったらかめはめ波が出せるのかなと思って通い始めたんです(笑) それと、もともと武術には興味があって、気功は治療にも使われると聞いて何か人の役に立てるかなと思って。
バイトがなかなか続かず落ち込んでいたんですが、気功は続いてたので「トレーナーをやってみては」と先生から提案をいただきました。教える側にも立ちながら、研修で沖縄や北京にも先生と一緒に行き、色々な経験を積ませていただきました。
それまで実家からあまり出たことがなかったというはるかさん。春喜さんとはじめて海外へ行った際も、こんなに色んな人種の人がいるんだと驚いたそうです。

福井市から鯖江市に移住して特に困ることはありませんでしたが、近所に猿やクマなど野生動物がたくさんいてびっくりしました(笑)
自然豊かな場所だなとポジティブに捉えています。実家に住んでいたときは何でも親まかせだったので、尾花屋を手伝う中でご近所さんとの付き合いが生まれ、自分でコミュニケーションを取っていかなければならないことに最初は戸惑いました。今でも得意な方ではないですが、三徳ともども可愛がっていただいていると思います。いきなり移住したのではなく、住み込みで手伝うことからスタートしたのが良かったのかもしれません。
子どもが生まれて1年。家で仕事をしているので、1日何もできないこともあると話すはるかさん。「仕事」と「暮らし」と「子育て」を同じ住空間に入れるときは三世帯で暮らすなど、大家族で子どもを育てないと難しいなと感じておられる一方、地域の方が三徳くんを可愛がってくれることが一つの支えでもあるといいます。
三徳くんが幼稚園や小学校に行くようになると、違う世代との繋がりが生まれることが楽しみだと話す佐々木さんご夫婦。地域で子育てをすることの楽しさは、子どもが成長するたびに自分たちにも新しい幸せが訪れる暮らしの形なのかもしれません。
【尾花屋facebookページ】
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