【漆琳堂-vol:1/5】創業から200年超。八代続く漆器製造業の長男に生まれて。
1500年の歴史がある越前漆器の里、河和田地区は、漆器に関わる会社が多くあり、たくさんの職人が、今も息づく伝統を継承してきたまちです。しかし、高度経済成長期と共に、業務用漆器の産地として産業形態を転換してからはOEMに特化して、一般消費者への直販はしておらず、越前漆器が購入できるところは、都市部の百貨店か、越前漆器協同組合が運営する「うるしの里会館」のショップのみでした。
そんな産地のシステムに新しい風を入れた、漆琳堂。2016年に工房の一角を改装し、直営店をオープン。また、職人を志す若手スタッフを積極的に受け入れ、朱と黒だけではない、カラフルな漆器でオリジナルブランドを展開し、若者から大人まで幅広い世代が注目する漆器を生み出すなど、産地の未来を示す、大きな発展をされています。
1793年(寛政5年)の創業から8代続く家族経営の塗師工房がどのように進展をしてきたのか、漆琳堂のストーリーを5回に渡って追っていきます。
家業は漆器製造業。内田家の八代目という環境
株式会社漆琳堂の八代目 代表取締役社長の内田徹(うちだ・とおる)さんは、1976年生まれ。鯖江市河和田地区の西袋町育ちです。
「うちは家業が漆器製造業の塗師工房で、親戚のほとんどが漆器の仕事をしています。父も母も河和田出身で、我が家は代々は丸物の漆器業で、 祖母は7人兄弟で7人とも漆器業をしていました。母の実家も角物の製造業で、母の兄弟も漆器業を営んでいたのでお弟子さんであったり、職人さんであったり、産地内のいろんな方々との関わりがあって、今でも祖父にお世話になったと当時の出来事を話してくださる方がいらっしゃいます。」
ーー漆器製造業を営む家庭って、どのような環境なのでしょうか?
私が幼い頃は、バブル経済で業務用漆器が一番忙しいときでした。当時は工場と家が隣接していて、家族みんなが工場で夜遅くまで残業をする中、僕は家でひとりでテレビを見ている…みたいな感じでした。
父親参観のときには、いつもうちの父親だけ来ていなくて…。近所の中山公園が完成したときに植樹をするイベントがあったのですが「うちの父ちゃんだけ来ていない!」と思ったのを今でも覚えていますね(笑)
ーー本当に忙しかったのですね。
家の前に運送用の大きなトラックが来て、商品がどんどん積み込まれていく景色を覚えています。若手職人のお兄さんと一緒にキャッチボールをしたり、漆器を梱包するおばちゃんに可愛がってもらったり、楽しい思い出もあります。
ーー家業を継ぐことは意識していたのでしょうか?
姉と私の2人姉弟で長男ですが、両親からは漆器の仕事をやれと言われることはなく、「会社は継がなくてもいいから、好きなことをしていいよ」と言われて育ちました。お前の好きな人生を進めという感じだったので、小中高は野球に打ち込み、中学校はエース、高校では弱小でしたが甲子園をめざして部活に打ち込んでいて、勉強はあまりしていませんでした(笑)
身体は小さかったのですが、手は大きくて。保育園ぐらいから祖父母に「5寸のお椀を持つにはすごくいい!漆器をするには大きくていい手だね」といつも言われていていました。お椀の大きさって、4寸ぐらいが平均の大きさなのですが、5寸や6寸の大きいお椀もあって、手が小さいと塗るときに持てないんです。
「あぁ、俺ってそんなにいい手なんだ」と小さい頃から思っていたので、じつは塗師への道を刷り込まれていたのかもしれません(笑)
高校生の時は、体育の成績はずっと一番で、柔道で10人連続で勝ったり、鉄棒で大会に出たり、懸垂も28回で一番。あらゆる競技で高順位に入っているみたいな感じでした。
ーースポーツの道を進んでおられたのですね。
そうなんです。大学は、県外に出ていこうと決めていました。高校で出会った野球部の監督が、中京大学出身だったこともあり、大学は中京大学の体育学部に進み、体育教員を目指しました。部活は子どもたちにキャンプやスポーツの指導を行うレクリエーション部に入部しました。縦社会が強い体育会の環境にいて、部長をしていましたね。そこで妻とも出会いました。
子どもの頃には気付かなかった、家業の姿。
大学の4年生になり、母校の東陽中学校に体育教師として教育実習に行きました。愛知から福井に戻り、久々に実家で生活をするのですが、実家の仕事ぶりを大人になって改めて見ることになりました。
ーー改めて見た実家のお仕事はどうでしたか。
目指していた教員の聖域的な仕事とは対照的な印象を持ちましたね。学校の先生は、頑張っても頑張らなくても給与は一緒で、優秀な生徒を育てても評価はあまり変わらない。漆器の仕事だったら、頑張ったら頑張った分だけ給与が上がったりステップアップしていくのかと気付き、教師を目指すのではなく就活をはじめました。
漆器屋の息子が漆器業界に入るとき、学校を卒業してすぐに家業を継ぐのではなく、東京の卸先や製造メーカーに2~3年間修行へ行くという流れがあるんです。私も家業を継ぐまでの勉強のために、雑貨や家具を扱う企業の内定をもらい、就職しようと思っていたのですが、4年生の11月に、たまたま実家に帰省したとき、うちに来ていた漆屋さんと話をしたんですよね。
「就職するならどこにでも就職をすれば良いけれど、よそに行っても、荷造りや掃除をやる程度になってしまう。実家に帰ってきたらすぐに第一線になれるんだよ」と言われました。その言葉を聞いて、実家である漆琳堂を継ぎ、第一線でやっていくことを決意しました。
ーー漆屋さんのひと言が響いたのですね。
その年の年末には、まだ学生でしたが、父と母にお願いをして自分の名刺を作ってもらいました。卒業までの間、愛知で漆器を扱ってもらえそうな居酒屋や陶器屋に行き名刺を渡して「漆器屋の息子なんですが、漆器は要りませんか?」と言って回る変な飛び込み営業をしていました(笑)。帰って来たときに驚かせたかったというのもあったし、やってやろうと意気込んでいたんですよね。
実家から漆器のサンプルを送ってもらったりしていたのですが、値札をみてむちゃくちゃ高いなと自分でも思ったり、実際にお客さんにも言われたり。飛び込み営業の成果は特になく、漆器業界って厳しいんだな…というのを体感して福井に帰ってきました。
ただ、製造業として家には漆器が沢山あるし、これをどう売るかだなと前向きに考えていました。
内田家が代々継承してきた塗師工房。
1500年の歴史を持つ越前漆器の産地は、戦前と戦後で状況が分かれています。
うちでは戦前は一貫生産の体制が整っていたので、うちから出て育っていったお弟子さんもいます。高度経済成長で漆器産業が大きく伸びた時期があって戦争のことを忘れがちですが、私の祖父も戦争に徴兵されています。戦争で日本は全てを失い、漆が買えなかった時期もあり、ゼロからのスタートになるという大変な時期を乗り越え、本当によく復活したなと思います。
戦後、祖父と父の代で原料や道具、備品など一通りの環境を整え、私が社会人になるときには既に漆琳堂は法人化しており会社員として入社できました。塗りの修業は、下地を数年、中塗りを数年、上塗りは10年みたいな話もありますが、環境が整っていたので漆屋さんの言葉通り、入ってすぐに漆の上塗りをさせてもらいました。
周りには親戚の職人のおんちゃんがたくさんいたので、何かあればすぐに頼める環境にも恵まれていました。
※次回に続きます
(カバー写真:片岡杏子)