【Hacoa vol:2/5】ビジネスのアップダウンに煽られ、絶体絶命からの奮起。

木ーボードの誕生

 

――独立されるのではなく、職人気質な社長の元で、新ブランドとして立ち上げされた経緯を教えてください。

東京放浪時代、自分独りで商品の企画・デザイン・提案・見積もり・製造・納品をしていました。さらに請求書を出しても、集金に行かないと誰も振り込んでくれないような状況…。全部一人でやるのは無理だし、「独りでは何も変えられない」と思いました。

同時に、やっぱり自分は職人の仕事がしたい、師匠から受け継いだ技術を次に繋げていきたいと、その頃は考えていました。「後継者育成」や「伝統技術の継承」といったことの上で、ものづくりをしないと自分がやりたいことからもズレる。そういった想いから、若者が魅力に感じる仕事にしようと決めました。

ーー「魅力を感じる仕事」を具現化するものとしてHacoaブランドを立ち上げられましたが、ブランド名にはどんな想いが込められているのでしょうか。

Hacoaは造語です。心地よい「箱」という空間の中に+αしていくという意味です。重箱を作る際に板と板を組み合わせ、重ねたときにどうしても捻じれがあるので、重ねてカタカタとなれば、高いところに鉋をかけて落とす作業があります。そのときに重箱の隅を「コンコン」と指で叩くと重箱の空間に心地よい音が反響します。その箱の中で共鳴する心地よさを求めたい。そんな想いから名付けました。「ハコア」という響きも気持ち良くないですか?Hacoaのコは、【k】ではなく【c】なのも、響き良くしたかったからです。

ブランドとして立ち上げたのは2001年。「ものづくりを通してつくる人を集め、感動を生み出す」という企業理念を考えたとき、ものづくりをしたいという若者を育てていかないといけないという想いがありました。

Hacoaのロゴは、「木ーボード」という商品に初めて刻印しました。この商品を見て、買いたい人(お客さん)、売りたい人(小売店)、作りたい人(職人)という人が集まってきてほしいと3つの願いを込めての事です。ファーストモデルの価格設定は268,000円。手作りだった事もあり、損をしないように値付けしたのですが、この価格で5台も注文が入ったときには、自分でも驚きました。Webで新商品発表しましたので、瞬く間に世界中に拡がり、話題となり注目されました。

ーー木ーボードはHacoaブランドの代名詞となった商品ですね。

そうです。2003年に木ーボードをインターネットで発表しました。当時はインターネットが普及し始めたばかりのときで、大した情報量じゃないので、目立ったんでしょう。しかし、その事で木のキ―ボードはハコアが作った、ハコアの商品と認知されました。ブランドを掲げるには、そのブランドの代名詞になる商品が絶対に必要です。ハコア=木―ボードという連想がブランドを知り得る価値にもなるのですから。今でも海外に行ってハコアですと名乗ると、あの木―ボードを作ったのは君かと多くの人に云われます。海外では、木で繊細な商品を作る職人という価値観はリスペクトされます。

以前からお客さんと直接繋がりたい事もあり、楽天にお店を出しました。当時は楽天がオンラインモールを立ち上げたばかりのときで、インターネットで商品が売れるはずが無いと云われていた時代です。その当時に楽天にお店を出し、今でも継続してお店を持っている人も珍しいと思う。

当時、ネットショップでは1ヶ月に数万円ほどしか売れませんでした。それでも、職人がユーザーと直接やり取りできることなんて今まで無かったから、嬉しかった。そこからインターネットを使い倒して、どういうものが売れるのかを研究していきました。

ーー木ーボードはどのようにして生まれたのでしょうか。

プラスチックアレルギーの人が来て、手袋をしてパソコンを使っているという話を聞き、「市橋さんなら木で作れるのでは」という話しがありました。この声が、きっかけで、Hacoaのスタイルが変わることになったんです。

木―ボードの発表後は話題になり、2チャンネルで色々と書き込まれました。それでも最終的には皆が触ってみたい、使ってみたいという事だったので、商品化を目指して作り込みました。その商品化した木―ボードをふくい青山291(東京南青山にある福井県のアンテナショップ)のショーウインドウを貸してもらい、50個の木ーボードを並べて、「So Many Keyboards , So Many Colors ~貴方の好きな木目を選んで貰い、好きな木ーボードを購入して下さい~」という展示会を開催しました。

それまでのふくい青山291は、物産館って感じで若い人が立ち寄る場所では無かった。若者にこそ、木で出来たキーボードに触れて欲しいと思ったとき、周辺のカフェやギャラリーにお願いして回り、DMを置かせて貰った。その事もあり、多くの若い方が来場して貰え、期間中に50台の木―ボードが完売になりました。施設運営の方々もこんなに若い人が多く来たのは初めてだと云われたときには、飛込みの苦労が報われた事と、充実感でいっぱいでしたね。

 

大きな波に乗る

 

ーーそうやってHacoaブランドは成長していったんですね。

ブランドを立ち上げる前、鯖江のめがねメーカーからの依頼で、めがねのディスプレーを作っていました。販売店で眼鏡フレームを展示するための展示台です。当時は、眼鏡フレームにブランドライセンスを付けて売っていた頃で、有名なブランド名が入ったディスプレーです。1回の発注数が500個~1000個と、数も多く売上もあったので、とても助かった。数年はその活況の中にいました。しかし、小売店が独自のスタイルで店づくりを始めた事もあり、ブランドライセンス販売の陰りも見え始めていた頃、市場調査の為に小売店に行ったときに、納品した各社ブランドロゴの入った什器が、お店の裏で廃棄されていたのを見たんです。どうしてと聞いたところ、「勝手に送られてくるんだよね。お店の雰囲気にも合わないし、置けないよ」と。

その光景やお店の人の返答が衝撃的で。自分の企画した商品が廃棄されているのを見て、ゴミを作っていたのかと…。Hacoaでは廃棄されず大切にしてもらえるものを作っていくブランドにしようと決めました。しかし、現実的には、携帯の着せ替えカバーのように数か月で機種変更をしていく際にカバーも捨てられてしまうのではないかと思う商品もあり、こういった回転が早く廃棄される商品にはHacoaのロゴは付けませんでした。

でも、携帯着せ替えカバーはめちゃくちゃ売れて(笑)。まとまった資金ができたおかげでCAD/CAMのオーダーシステムを導入し、かなりの生産性アップと職人の技術格差を無くすことができました。

大量の注文が入り、私が作って、かみさんがインターネットで受注して、梱包して、夫婦ふたりで作業して。毎回新しい設備を入れるときは、家庭が大事なのか仕事が大事なのかと夫婦喧嘩もしました(笑)。

ーーその後、PC関連商品へ展開を進めて行かれたのはどのようなきっかけがあったのでしょうか。

木ーボードを発表してから、大手の商社から声がかかりました。情熱ある商社マンが福井を訪ねてきて「設備投資をするから木ーボードを量産してほしい」と。木―ボードは手作りでしたので、機械設備で製造するものではないから量産は無理だと説明しましたが、なんとかならないかと…。ピアノを作る機械のメーカーにも設計の相談をしましたが、やはりダメでしたね。この美しさと精密さは、機械では出来ない。良いお声がけでしたが、木―ボードでは話が進みませんでした。

その頃、ちょうど並行して木のUSBメモリの試作をしていました。当時、USBメモリは市場に登場したばかりの画期的な商品でしたが、今から思うと32MBと少ない記憶容量で、おもちゃ程度の品でしたが、可能性があると考えていました。

木ーボードの量産は難しい。そこで、USBの基盤を仕入れることのできない自分たちに代わり、基盤を仕入れてもらって、木のUSBを作りませんかと商社マンに逆提案しました。

ーーこちらもHacoaのブランドを印象づけた商品でした。 

大手商社マンとの二人三脚で開発したUSBメモリは、月に3,000個とか5,000個と、どんどん売れていきました。伝統工芸や手仕事の世界とは次元の違うスピード感を体験しながら、大きな波に乗れたことを実感しました。

その後は、パソコン周辺の機器を木で作る「デジタル×伝統工芸」というコンセプトで新商品をどんどん企画しました。木ーボードから始まり、携帯のカスタムジャケット、USBを作って、ITの世界の広さを知りましたね。台湾やドイツの展示会にも出展してHacoaが業界で知られるようになり、海外で様々な人脈を作る事にもなりました。

 

もうひとつのターニングポイント

 

南青山291で展示会を行っていたときに、外資系ホテルの内装や調度品を製作する商社の社長さんと出逢いました。社長さんは、一流の指物技術を探していて、私の友人に紹介されて来られました。お逢いした後に東京ミッドタウンのホテルの内装、調度品を作ってみないかとオファーをいただきました。ゼネラルマネージャーに会って、図面を見ながらこんなものは作れるかと打ち合わせをしました。

2008年は、東京ホテル大戦争と言われていて、海外から外資系の有名なホテルが次々に進出してきたときです。その事もあり、案件が大量に飛び交っていました。このチャンスをものにしなくてはと、力を入れたことで、ホテル関係の仕事がどんどん入ってくるようになりました。

そのときに図面を書く能力、技術も身に付け、ゼネコンを相手に仕事をする作法も身につけた。一流のインテリアデザイナーと仕事をする機会を得て、センスも修得した。一流を知らないと一流にはなれないということもわかったし、世の中のことをたくさん知れた。この経験が非常に大きかったですね。今振り返ると、建設業界に携っていた事で、近未来の都市計画の意図を知り、土地勘を高め事と、自身でお店を設計して増やす事や建物を建てる事に臆病にならなかった。ここがHacoaのターニングポイントの一つになったのだろうと思います。

ーー2008年のリーマンショックも、大きな変化があったとのことでした。

2008年に本社社屋を建てました。本社社屋は、既存の漆器関係の仕事が無くなっても、しっかりと利益が生まれて、やっていけるようになるまでは建てないでおこうと決めていたのですが、ホテルとUSBメモリの仕事が軌道に乗り、大丈夫だろうと判断して建設に踏み切りました。

ちょうど建設が終わり、引っ越しの最中に、アメリカでリーマンショックがありました。アメリカは大変だなぁと、「対岸の火事」くらいに思っていましたが、年が明けたら飛び火していました。華やかな装飾や贅沢な調度品の案件のほとんどが保留やキャンセル、見直しになり、建設業界全体が立ち止まりました。

建設業界は向こう3年くらいの間に小さな設計会社の半分は無くなる言われた事で、絶望感でしかありませんでした。加えて、大量に注文を貰っていたUSBメモリも売れなくなりました。それは、水道の蛇口を全開にして流れていた水が、蛇口がキュっと閉められ、ポトポトとしか出てこないように注文は激減し、売り上げを失いました。

その苦境を脱する為にも、自分で作ったものは自分たちで売る。自分たちのマーケットは自分で育てるしかないんだということがわかったんです。外的要因に左右されるビジネスではなく、自分たちのビジネスを作る為にも、自分たちで売る事にしようと当時の社員8名に伝えました。

それからは、商品ラインナップを横にも縦も広げて、1年間はインテリアライフスタイルやギフトショーなどの展示会にたくさん出ました。

この年の展示会の巡業コストが年間1,000万円程かかったにも関わらず、その経費に見合う程の成果は出なかった。これだけの経費を掛けるのであれば、東京で店を持った方が安いのでは…と考えていたところでタイミング良く、思い出のまち、御徒町の「2k540」から、出店依頼の声がかかりました。施設の担当者からは、お店の場所はどこでも良いと言われたので、施設の真ん中の店舗区画を選定させていただきました。

ーーHacoa初の都内直営店ですね。

ビジネスはアップダウン。リーマンショックのときには、銀行を回って支払いを止めてくれと土下座したこともありました。ある程度は想定していたから、なんとか倒産せずに済みましたが、リーマンショックは大きな転換期になりました。この苦境がなかったらHacoaブランドが躍進することは無かったかもしれません。

これはターニングポイントくらいの話じゃない。全部が変わった、岐路でしたね。

 

※次回に続きます。

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