【マイセンファインフード-vol:2/5】米を愛し、米に愛された創業者。そしてたどり着いた答え。

入社日に辞表を提出。

 

村井社長と二人三脚でマイセンファインフードの舵を取る、株式会社マイセンファインフードの創業者である牧野仙以知(まきの・せんいち)さん。お米に対する情熱や会社創設までの経緯などのお話を伺いました。

――まずは牧野さんご自身について教えてください。

僕は鯖江市上野田町で生ました。同世代はだいたい大学に行っていたから、僕も大学を目指して勉強し、1回目の受験は完敗。2回目の時は手ごたえがあって、今回は絶対受かっていると思っていたら落ちていて。そんなバカなことがあるかと思い、キッパリ受験はやめることにしました。その後ぶらぶらしていたら親に泣きつかれたこともあって、役所を受けることになって。当時、第二次オイルショックの後で倍率が48倍くらいあったから受かるわけないと思っていたら、1次試験に通っちゃって(笑)

絶対行かないぞって言ったらお袋がシクシク泣くから、仕方なしに2次試験も受けました。
そしたらそれも通っちゃって。

――それで役所に入られたのですね。

周りの親戚からは学歴差別なんて無いと言われていたのですが、時代的に全然そんなことはなくて、人事に聞くと「高卒が入ったのは12年ぶりだよ」と嘲笑されたので、「そんなの採るやつが悪いんじゃないか、辞めてやるわ」と言って、入ったその日のうちに辞表を書きました。

――その日のうちにですか!?

そのときの課長に「やめます、望んで入ったわけでもないから」と言ったら「オメー、よく考えろ。お前のおかげで落ちた40人が泣いているんだぜ」と訳のわからないことを言われて…。課長に「石の上にも3年だから、とりあえず3年頑張ってみないか」と言われ、結局2年半は続けました。

――役所を退職されてからは何をされていたのですか?

婚約していた女房と小さい商売を始めていて、それが軌道に乗ってきたときに、ずっと世話になっていた友達から「もっとでっかい商売をやろうよ!勉強になるよ」と言われ、人材派遣の仕事を始めました。当時「人材派遣」という言葉はありませんでしたが、人手不足で困っているお客さんはたくさんいたから、そういう人たちを助けてあげたいと思って。コンピューター会社、ソフト会社、漆器会社など色々なところへ、自らも派遣されて行きました。クライアントの一社から、新会社を設立するにあたって役員で来てほしいと懇願されて、その会社の取締役になりました。

――その後、マイセンの設立はどういった経緯で行われたのですか?

物や人を流すだけの仕事がだんだん面白く無くなってきて、自分でものづくりがしたいと思い始めたんです。

一番やりたかったのは環境ビジネスです。外食産業やホテルとの付き合いが長かったから、何ができるかなと考えて、生ゴミ処理機を開発しました。今でこそ環境問題にみんながお金を使いますが、30年以上前は生ゴミ処理機にお金を出す人はいませんでしたね。親がやっていた農業も、環境ビジネスだと思って後を継いでやり始めました。

 

運にも後押しされた脱サラ

 

しかし、農業をやるからにはコメの直販を手掛けたいと思って、米屋の免許を取りたいと考えました。当時はまだ米屋が県知事の許認可制だったのですが、ちょうど一件空きがあり、抽選で権利を募集していました。抽選会に行ったら50人くらい並んでいて、抽選順が38番目くらいの後ろの方だったから当たる訳ないやと思っていました。そうしたら前の人たちがどんどん外れていって、俺の番が回ってきた!と喜んでぐるぐると回したら「バン!」と赤玉が出て、『当たり〜〜〜!!』と。

周りは業界の人ばかりで白い目で見られていましたが、当たったからには、「これはやれば良いということなんだ」と背中を押されて脱サラを決めました。そうして立ち上がったのがマイセンです。ちなみに鯖江市で初めて、有限会社として農業生産法人が認められたのがマイセンなんですよ。

――運が味方してくれたのですね。マイセンの名前の由来は何ですか?

最初に考えていた名前は米の仙人と書いて「米仙」です。ただ証書作成のために公証人役場まで持っていったら、その時の役場担当者に「いまどき漢字は古いよ」と言われて、うーんと考えて、カタカナにして登録しました。

――この頃から米の専業だったのですか?

初めから米に専念していましたね。

「農業で飯を食っていけるわけがない」と、農業をやることに親父もお袋も猛反対でした。初年度なんかは売り上げが何もなかったですし、スタート時は家の隣にあった車庫の車を全部出して、掃除して床にペンキを塗って、精米機を置いて作業をしていました。

――その頃から通販はされていたのですか?

マイセンを始めた年に、すぐ始めました。様々な“つて”を頼って、福井県出身の県人会、福井県出身の社長さんたちに向けて、「お茶碗いっぱい5円の贅沢」というキャッチコピーで営業をしていました。その当時から継続して注文していただいているお客さんは今でもいらっしゃいますよ。うちのお米で育ったお客様が、今ではお母さんになって、家族で食べていただいているお話を聞くと、本当に有難いという気持ちを抱きます。

――それは嬉しいですね。玄米がメインというのもその頃からですか?

初めの頃は白米のみでした。それから2〜3年して、友人が玄米を分けてほしいと、うちに来たことがきっかけです。当時は玄米を食べるなんて知らなかったから、びっくりしました。永平寺の禅僧は一汁三菜ですが、あんなメニューだけでは栄養が足りないなのに、なんで大丈夫なのかということが不思議だったのですが、あとから「玄米」を食べているからだということに気づきました。それで、これだ!と思い、玄米を強く打ち出すことを始めました。

うちの玄米は生きているんです。玄米と水をシャーレに入れて30℃前後にしているとちゃんと芽が出てきます。食べ物の前提として、安全で、安心できる美味しいものを届けるということを大切にしています。

――どのようにして事業を展開してこられましたか?

初めは私が田んぼに出ていましたが、他の農業生産法人を立ち上げた友人たちと共に規模を拡大していく中で、作るのは任せて僕は売ることに専念するということで分業しました。僕は元々販売畑を歩いてきたから売り方がわかります。

当時の販売先のメインは外食産業で、個人のお客様は少なかったけど、時代とともに徐々に変わっていきました。リーマンショックあたりから、この玄米の良さがわかる方たちにも買っていただきたいと思い、、それでだんだんと一般の消費者の方が増えてきましたね。

――普通の農家さんとスタンスが違いますよね。

農家は先祖代々の土地を守るとよく言いますが、僕は違うと思っています。先祖代々よりも未来志向で考えていて、「未来の子どもたちから預かった大地を守る」という使命がある。それを若い人に言ったら、みんな共感してくれるんです。でも若い農家さんは力がない。それで、俺が売ってやるから作った米を持ってこいと、若い農家さんとのグループが立ち上がり、勉強会などで学びを深めています。そして農業の楽しさを見せないと若い人はやらない。絶対手は汚すな!手袋をしなさい!爪に泥をつけるな!スコップは持つな!がうちのモットーなんです。

 

玄米の普及を目指して!

 

玄米をもっと多くの人に食べていただいて、健康でいてほしいと心から願っていましたが、食べず嫌いの方も多いのも事実でした。あるとき、「米一本じゃなくてアイテム数を増やした方がいいよ」と言われたことを期に、玄米を使用した商品開発に力を入れていきました。最初に開発したのは玄米のお粥でしたが、もっと手軽に玄米に親しんでいただくために、玄米の焼きドーナツを作りました。美味いものができたと、自信満々で有名な東京のお菓子屋さんの社長に食べてもらいました。そしたら「美味いけど、いつから菓子屋になったんや。こんなことは菓子屋のすることであんたのすることじゃない。」とアドバイスを受けました。。「小麦粉と卵と油を混ぜて、揚げたり焼いたりするのが洋菓子屋だから、そんなことは俺たちがやる。牧野さんはもっと健康的なものを、アレルギーで食べられない人たちが食べられるものを作ってあげたら?」ということをびしっと言われて。そこで目が覚めたんです。

その時はそんなにアレルギーで困っている人がいることを知らなかったし、色々調べていくと本当にたくさんの方がアレルギーで悩みを抱えていることに心が痛みました。だから、俺たちが作るものは、健康的で誰でも食べられるものにしようということで、マイセンの新基軸が出来上がりました。それ以降はアレルゲンフリーのものでずっとここまでやってきています。

――アレルゲンフリーを徹底されていて、悩みや、苦労はありましたか?

元々は自社で生産しようとは思っていませんでした。こっちでレシピだけ作って、専門の工場で作ってもらおうと考えていましたが、徐々に作る商品が高度化していって、断られたり、騙されたりと色々あったので、自分でやるのが良いのかなと考え始めて、農林水産省に相談しました。そうしたら、会社を新しく作ってはどうかとアドバイスをいただき、新たに事業を展開するために設立したのがマイセンファインフードです。

 

亀田製菓との出会い。

 

マイセンファインフード設立をきっかけに、日本国内でも数少ないアレルゲンフリーの大きな食品工場が完成しました。しかし、今から6年前くらいは、ベジタリアンとかグルテンフリーと言っても、誰も見向きもしてくれませんでした。まだ時代が追いついていなかったんですね。かといって借金もたくさんあるし、お金がじゃぶじゃぶと出ていく。毎日1万円札でキャンプファイヤーをしているような気分でしたね。

それでもこの仕事は、私だけではなくてこれからの『社会』にとっても大事なことだから、絶対に続けないといけないと思っていました。もっと私たちの商品を広く知っていただいて、たくさんの人に健康と豊かさを提供していきたい。そんなときに亀田製菓とご縁がありました。亀田製菓も当社と同じくお米が会社の原点でもあるし、同じ北陸で日本海側だし色んな共通点がある。良いお話だなと思っているうちに、じゃあ一緒にやりましょうということになりました。

 

※次回に続きます。

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