【漆琳堂-vol:2/5】 世代交代。時代の変化とともに、移り変わり始めた漆琳堂
1999年、内田さんは大学卒業とともに実家に戻り、2019年の勤続20年を節目にお父様から代表を継承されました。最初の10年間は会社を継ぐための時間だったと振り返ります。
ーー入社当初のことを教えてください。
はじめの頃は、月に一度、父や祖父が切り拓いてきた東京や大阪のお客様の所に車で営業に行っていました。それがもう、嫌で嫌で(笑)
他にも漆器の産地へ出向き、漆器屋がたくさん集まるところへ行ったり、東京では、かっぱ橋や築地のまわりに業務用漆器を取り扱っている会社があるので、2日間かけて営業や集金をして回ったり、商品の提案をしたり、修理をいただいたり…。というのを何年もしていました。
ーー全国を飛び回っておられたのですね。
今では業務用漆器の仕事の流れが変わってきたので、現地訪問が2カ月に1回になって、3カ月に1回になって…。今は行っていませんが、スタッフに昔話として話していたときに「無意味なことしてますね」と笑われました。
奥様と二人三脚で。
大学で出会った妻は愛知県出身で、大学卒業後は名古屋にあるスポーツジムに就職をしていました。福井から名古屋は会いに行ける距離だったのですが、東京に転勤が決まってしまいました。福井と東京では距離が離れすぎているね…と相談した結果、退職をしてもらい、結婚して妻も漆琳堂の社員になりました。
バブルで好調だった業務用漆器ですが、私が入社してからの経営状況は最悪で1年間で2割ずつ落ちていく綺麗な右肩下がりで、業界の衰退が進んでいきました。
ーーその頃のお仕事はどのような感じだったのでしょうか。
暇だとパチンコに行く職人さんたちもいますが、うちは代々田んぼや山を持っているので、夫婦で山に行って苗木を元気に育てるための下刈りをしていました。住宅に使える杉材が大半ですが、地権の境目には漆器に使えるケヤキを祖父が植えてくれていたので、大切にしてきました。
あの頃はよく行っていたよね、暇だったね、と話題になります。「そろそろ木が大きくなったので、間引いたりしないとね」と話していますが、そんな余裕は無くなり、今ではなかなか行けていませんが…。
妻と結婚をしてから、朝から晩まで家も職場も24時間一緒にいます。それを人に言うとよく「信じられない」と言われますが、僕たちにとっては普通の日常ですね。
「漆を塗ることは大事な仕事だけど、塗りはスタッフに教えることができる。でも、経営に関しては自分しかいないんだよ。」と言うのは妻で、いつも大切なことに気づかせてもらっています。
学生時代に過ごした愛知から、次の漆琳堂へ。
ーー名古屋には、大学卒業後もずっと縁があったそうですね。
妻の地元であり、学生時代に住んでいた名古屋にはよく営業に行っていました。営業開拓したお客さんとの取引があったり、美術館の隣にある喫茶店で商品を取り扱ってもらっていたり。「漆琳堂の展示会をしないか?」と言われ、2008年にははじめて名古屋で漆琳堂の展示会をしましたこともありました。
経費計算をすると正直厳しく、一度止めようとしましたが、ちょうど補助金が通ったこともありお店を貸し切って開催したら、大学の同級生や妻の家族、親戚などたくさんの方にお越しいただきました。
この展示をきっかけに、東京で開催された「和の暮らしのかたち展」という展示会に声をかけていただき、全国の工芸メーカーの中から50選に選ばれ、東京のリビングデザインセンターOZONEに出展が決まりました。
展示には個人向け商品が並んでいました。うちは旅館や飲食店向けの業務用漆器のしか作っていなかったので、漆器を並べながら「こんな蓋つきのお椀を誰が使うんだろう…?」と思っていました。
ギフトショーにも経済産業省の推薦枠でブースをいただき出展していたのですが、蓋付きのお椀は見向きもされませんでした。30個でも売れたら成果だったと思うのですがまったく売れなかったです。
ーーかなり厳しい状況ですね。
東京の展示で50選に選ばれていた他の会社は、富山の能作さんだったり、秋田の曲げわっぱの柴田慶信商店さんなど、今では成長して大きな会社になっているような、錚々たるメンバーでした。他の出展者の声を聞いていると「卸しはやめました」とか「卸しも受けるけど、歩合が悪ければ断りますよ」と言っていて。うちは100%卸しでやっていたので「いやいやいや、それはやばいでしょ」と思っていました。
当時の自分たちにとって、卸しをしない経営というのは本当に持続性があるのか半信半疑でしたが、彼らは今や東京に直営店を構えておられるので、当時からのあれが成功路線だったのかと感動しています。
ーーいま成功されている方々に触れて、ヒントを得られたのですね。
いろいろな方と話をして、卸しだけに頼るのではなく、自社ブランドが必要だなと感じました。売れなくて失敗をして、作りたくて作ろうという感じではなく、直感的に自社ブランドがあったほうが良いと感じました。手仕事の業界全体で、これからはBtoCだ!という空気がありました。
ーーその後は、どのように動いていかれたのですか?
漆琳堂に入社して10年目を機に動き始めました。まずは「自分ブランド」として、作家みたいな活動を始めました。個展をしたり、漆器で有名なギャラリーを借りて販売をしていました。
それはそれで売れたのですが、一週間で100万円売れても百貨店やギャラリーに手数料を40%取られて、一週間の滞在費、原価...。計算していくと厳しい状況でした。それに販売員として現地滞在している期間は、塗りの仕事ができないんですよね。
(写真:片岡杏子)
100万売れても何も残らない。これではスタッフを雇うこともできないし、会社とはいえない。漆琳堂として作家でやっていくのはダメだなと思い、2〜3年で手を引きました。
今でも、「そのときの商品を卸してほしい」という注文を定期的にいただいたり、そのときに知り合った方から連絡があったりと無駄ではなかったし、注文があるとありがたいのですが、作家の道を進まなくて良かったなと思っています。
ーー漆琳堂の会社の特徴は何なのでしょうか?
漆琳堂は、中量生産に長けているところが技術的な特徴です。伝統工芸なのに中量生産なのかという声もありますが、生活にまつわる日用雑貨となると、ある程度の量を作ることが必要なので、お椀を5~10個の単位で塗るのではなく、50~100個の単位で塗って納める生産体制が整っています。
(写真:片岡杏子)
うちは毎日上塗りをしていますが、作家さんの話を聞いていると上塗りは1か月に1~2回という感じで、「そんなに塗る品物があるのか?」と驚かれます。作家さんのように高値では売らないし、ある程度の数が作れるというのがうちの特徴であり、目指してきた体制なんです。
当時は私も暇だったのでいろんな実験ができたんだと思います。10年間、下地から上塗りをして、塗りの技術も備わっていたので、自分でつくれるという自信と、こうすればいいんだなという感覚も備わっていました。
※次回に続きます