ヤマト工芸|ものづくりだけじゃない。高野社長が考える会社作りと、まちづくり

一目で『ヤマト工芸の商品』とわかる、色鮮やかで技術力が光るティシュケースやダストボックス。

「ここ河和田産地の中で、職人工房がデザインや商品開発を始めたのはうちが最初ではないかと思います。木地屋さんは完成品までは作れず、塗装屋さんは自分で商品開発をすることはできません。ですがうちは、企画から完成まで一貫生産ができるんです。」

今回お話を伺ったのは、ヤマト工芸の高野利明(たかの・としあき)社長。鯖江市内でも多くの方がご存知の名物社長です。

「Webページを作ったのはうちが鯖江で一番! FAXを導入するのも、コンピューターを仕事に取り入れるのも早かった!」

これからの時代に何が必要になるのか、世の中の流れを読みながら様々な商品作りに取り組んできたヤマト工芸。そんな前のめりの姿勢から生まれた、日々の生活に親しみやすい商品たちを生み出す環境をどのように作ってきたのか、これまでの歴史を含めてたっぷりとお話ししていただきました。

幼いころから家業を手伝い、18歳で創業。試行錯誤を繰り返した日々。

 

小学生の頃から、家業である木地づくりの仕事を手伝ってこられた高野社長。小学校への登校時は、リヤカーに商品を積んで道すがら納品し、下校時には取引先に材料があれば積んで持って帰ってくるという少年時代を過ごされたそうです。

高野社長のお父様である利男さんは、地域の皆さんに「とっさん」という愛称で呼ばれておられましたが、高野社長が10歳のときに肺炎で亡くなられました。このままでは家業が危ない・・・と仕方なく18歳という若さで独立し、昭和48年に家業を基にして、家族を含め6人の社員でヤマト工芸を創業をされました。

「19歳のとき、親戚から『商品のサンプルを作ってほしい』と言われたことをきっかけに、自分でデザインからあれこれ考えて30点程作りました。ほとんどは商品にならなかったのですが、1点だけ奇跡的に数万個売れたんです。」

ご自身で考えた商品がヒットし、会社に仕事ができることで工房内が活気づいていくことに衝撃を受けたという高野社長。その後も舟盛り用の料理盛台をご自身で設計して提案をしたり、お得意様から依頼を受けては違う形を何点も作り、たくさんの商品を生み出すことを大切にされてきたそうです。

夢のない仕事だと思っていたものづくりが、生きがいに変わった。

昭和から平成へと時代が変わると、ものづくりを取り巻く環境がライフスタイルと共にどんどん変化していきました。木板から合板へそして、木からプラスチックへと新素材が主流を占めるようになってきました。

「木工の仕事はいずれ斜陽産業になる」と予想されていた高野社長。その後、予想通り木工の仕事は景気が低迷し、仕事量が減っていきました。国は日本のものづくり文化を守ろうと約50年前に『伝統工芸』という言葉を作ったそうです。

「そのような時代ですから、木工の仕事は将来も夢も無い仕事だと思っていました。それでも20人の社員を抱えていたので、仕事をして食べていかなければならない。」

不意に親からバトンが回ってきてしまった木工の仕事ですが、昔からポジティブだった高野さんは常に「新しいものづくり」を軸に考え、厳しい時代をどうやって生きて抜いて行くのかを考えてこられました。

「1986年から木地づくりだけでなく、『塗装』と『塗り』の仕事を始めました。塗装を始めるようになったことで一貫生産ができるようになり、商品開発がやりやすくなりましたね。さらに当時が経営が上手くいっておらず社員がたくさんいるにも関わらず仕事量が半分になっていましたが、塗りができるようになることで仕事が確保できました。」

塗りを始めたばかりの頃は、壊れたり塗料の匂いで問題が起きたりと大変な経験をして来られたそうですが、試行錯誤で研究を続けられ、現在は見た目も良く丈夫に仕上がる独自の塗装方法を生み出されています。

「普通職人は、磨いた技術力を根拠に仕事受注しますが、僕はデザインが嫌いではなかったし絵も描きました。それを生かしてお客様の要望を聞きながら商品開発をすることが出来たんです。新しい商品を一緒に考えるには楽しいですし、私の生きがいだと思います。」

「仕事の上で大切なことは『とにかく断らない』こと。試行錯誤した結果どうしても無理だったら、デザインや素材を変える。それでも無理だったら、他社をきちんと紹介する。次に『面倒くさいことを自分から率先してやる』こと。そして社員に何も強制しないこと。やりたいことをやれば良いし、違うと思ったらやめれば良いと考えています。」

そう考える高野社長が作った広い工場の中には、様々な商品が次の工程にかかる順番を待っています。

決して儲かっているわけではないけれど、高野社長と社員の皆さんの一生懸命な気持ちが一つになり、ヤマト工芸のものづくりは今日まで続いて来ました。

若者を育てたい。ヤマト工芸流の大切な社員の育て方。

「働いていて少し違うなと思ったり、自分のターニングポイントを見つけられたなら、うちでの仕事を辞めてそれをやれば良い。そんな個人の姿勢を応援できるのがヤマト工芸のポジションでありたいと思っています。」

現在40名の社員が働くヤマト工芸。社長のお考え通り社員の出入りは風通しが良く、地元出身者はもちろん他県から来たIターンの若者がこれまでに何人も働いて来ました。

「やりたいことを見つけた社員は、だいたい3年で転職していきます。特に地元出身ではない、他県から来た人は数年働くと辞めるという傾向がありますが、それは夢を持って鯖江市に来て、目指すべきことを見つけられる人が多いからだと気づきました。」

ヤマト工芸に来てくれた人をいかに育てるのかということを大切にし、社員にはいつも「自由にやりなさい」と話しておられる高野社長。しかし自由の中にも「仕事の先にはお客様がいるので責任を持つ」ということを大切にしてほしいそうです。

現在子育て中のお母さんが7~8人働いておられるそうですが、子どもの送り迎えの時間など、それぞれの予定に合わせて働きやすい時間でシフトを組めるような環境になっているのだとか。

そして多様性溢れる工場内を歩いていると若い社員さんや、女性の社員さんがたくさん働いておられ、すれ違うと皆さん爽やかに挨拶をして下さるのが印象的でした。

会社や社員だけではない。大切なまちをこれからもつくっていく。

 

「河和田の町は、ものづくりが中心になって動いているところが特徴です。社長が多いのでお山の大将的な人が多いのですが、同じ町で暮らして生活を共有しています。人と人との生業の交流がこのまちの魅力だと思います。」

常にものづくりとまちづくりにおける新しいことにアンテナを張り続けている高野社長。若者の発想に共感しながら「おもしろい!」と前向きに背中を押してくれる社長のお話を聞いていると、ものづくりの産地である鯖江というまちを、心から楽しんでおられることが伝わってきます。

「職人を活かして、ものづくりの基本を河和田から世界に発信して行くのが僕の使命だと思っています。」

ヤマト工芸はオープンな会社でありたいと話す高野社長。これまでたくさんの社員や、様々な形の研修生も受け入れてこられました。常時たくさんの商品が流れ、元気な社員が集まり、ものづくりの楽しさを発信しているヤマト工芸。

下記に連絡をすれば、いつでも元気な高野社長が会社を案内してくださいます。気になった方、ぜひ一度工場をのぞいてみてはいかがでしょうか。

【連絡先】
株式会社ヤマト工芸(webページはこちらから)
〒916-1224 福井県鯖江市莇生田町19-40
TEL:0778-65-1158
FAX:0778-65-1171
MAIL:yamato-kougei@poem.ocn.ne.jp

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