山久漆工 | 「伝統工芸」という言葉を珍重しない。自由なものづくりで未来の価値観を作る仕事。

職人を多数抱える漆器会社の社長と聞くと、なんとなく威厳のある年配の男性を想像してしまいますが、山久漆工の社長はとっても軽やかで柔らかいお人柄。漆器の世界に入るには学校を卒業したら弟子入りをして、何年も修行をして……という、取材前は一般的だと思いこんでいた先入観をがらっと覆されました。

漆器は日本が世界に誇れる文化。1500年の歴史を持つ越前漆器は、今日もアップデートされ続けています。そこには、あくなき探究心で革新に挑み続ける人たちがいるんです。

自社に工房を持ち、技術の積み重ねの上で革新を行う。福井と東京に拠点を構える山久漆工のスタイル。

山久漆工株式会社は鯖江市河和田町にある漆器製造販売の会社です。

創業は昭和1930年。社員数は7名と少人数ですが、その実態は福井県の本社だけでなく東京にオフィスを構え、様々なことに挑戦する実力派の会社!

お話をうかがったのは代表の山本泰三(やまもと・たいぞう)さん。鯖江市生まれで現在49歳です。山本さんは大学を卒業後、金融マンとして東京でお仕事をされておられました。

「山久漆工は産地の問屋でもあり、自社に工房を持って作ることもしています。そして新しい製品を作るだけではなく、お客様から修理依頼があるため、自社製品に加えて他社製品や他産地のものでも修理をしています。他にも、他社ブランドの製品をお手伝いしたり、別注でカスタマイズしたものを開発する、うるしの技術を使った商品を提案するなど、これらが弊社の仕事の全貌で、製造業としてのポジションでの仕事になります。

自分はそれらを俯瞰的に見つつ、新しいライフスタイルやニーズに対して、常にアンテナを張り、商材を持って展示会へ行ったり、展示をするだけでは伝わらないマーケットには、イベントなどを行っています。例えば、3年ほど前からテーブルコーディネートと漆器を組み合わせたような女性向けセミナーを暮れやセールに合わせて実施していて、1回30名ほど参加されています。」

漆器の世界は女性が支えているという山本さん。男性が買うにしても奥様に相談されるので、女性が決定権を持っておられることが多いのだとか。

「私自身の職歴をお話すると、東京から帰ってきてこの会社に入ったのが2005年なので、福井豪雨災害の後くらいです。帰ってきた頃には会社の経営が少しずつダメになっていました。それまで三和銀行(現在は合併し三菱UFJ銀行)に勤務していたので、東京のマーケットを狙っていく方が肌感覚として自分が活かせると考えました。ふくい南青山291の上に事務所を借りて、ギフトショーなどを目標に新しい展開を進めていきました。」

山久漆工の東京事務所を立ち上げ、方向を模索される中で様々な方と出会い、アメリカ・フランスなどでの漆器PRや古民家再生などにも着手された山本さん。そもそもなぜ、東京での仕事を辞めて家業を継がれたのでしょうか。

「銀行の支店勤務の後、郵政省(現在の総務省)に出向し、電気通信局が行っていた携帯電話等の通信格差是正事業という、電波のつながらない場所にアンテナを立てる事業の公共投資を担当していました。インフラが道路や橋だけじゃなく、アンテナも加わった時代ですね。その後本社に戻り、新たにインターネットや携帯電話を活用した銀行サービスを作り上げる部署へ配属されました。当時のセキュリティでは銀行には絶対にできない事業だったので、当時の監督官庁とも協議しながら、新たな挑戦を続ける日々を過ごしました。」

現在ドワンゴ代表取締役社長でiモードを立ち上げた夏野剛氏らと共に事業を進めてこられた山本さん。他にもATMのネットワークやクレジットカード業務なども担当されました。

「あるとき、組織で動いていることの嫌な部分に気づいてしまいました。しかし組織があったから大きな予算を扱えたことも事実ですが……。こういう環境に不満が募っていたときに、地元で福井豪雨災害がありました。親が、自分が継がないともう家業を廃業すると言っていたことを思い出し、自分のカラーでやれるところまでやってみようと、家業を継ぎました」

ご苦労されたと思いますが、事業を継承された山本さんにはどのような変化があったのでしょうか。

「実家に戻って、まず身体が変わりました。驚いたのは視力が0.6まで落ちていたのが1.5まで戻ったことです。朝から晩までパソコンに食らいついて仕事をしていた環境が、ガラリと変わったからだと思います。身体が合ってなかったのかも知れません。戻ってきてまだ大きな結果は出せていませんが、やりがいはとてもあります。」

サラリーマン時代は、無理をしていたけれど、とても良い経験になっていると話す山本さん。どのようなエピソードがあったのか聞いてみました。

「当時の上司が素晴らしい人で、『泰三くんが目指すところは、会社の株価を上げることだ。これをまず、自分が役員だと思ってやってみろ』という指導をいただき、それを目指してやってきました。できるだけニュース性のある商品にするにはどうしたら良いのかと。

株価を上げるためにアクションをすることこそ役員が一番やってほしいことで、毎日の仕事を淡々とこなすことが役員のやってほしいことじゃないんだ。そういう気持ちになって仕事をしてごらんと言う言葉を大切にし、山久漆工に戻ってきたときも、そういう気持ちで仕事をしようと思いました。」

技術を保持しながら、まだ世の中に無い価値観で伝統工芸の先の未来を作っていく。

「時代の流れとして確実に漆器のマーケットは縮小しています、でも、そんなこと言っていても職人の仕事は増えません。自分の仕事は結局塗り物を作って売るということなので、塗る技術をキープしておかなければならない。そのためには、売れる商品を開発するのか、在庫しておくのか、色んな方法はあると思いますが、全ての基になることは職人を育てていかなければならないということです。いざ注文が来たときに『作れません』では話にならないので。」

マーケットが縮小する中、山本さんは現在の自社利益だけではなく、いかに職人の技術を残していくかという未来の視点を語ります。

「今やらなければならないのは、新しい価値観を作っていくことに体力を使うことです。伝統工芸を作るんじゃなくて、伝統だったり、工芸だったりを上手く使って、時代のニーズにマッチさせたり、漆器の技術を一歩先くらいの時代にどう持っていくかだと思います。そこへ行くまでに越前産地の技術を使っていければ最高ですね。伝統工芸を作るという意識ではなく、結果的に伝統だったり工芸だったりするというスタンスが良いと考えています。」

「産地の未来に関しては、正直考えていません。というのは、産地という単位で意識することではないと考えているからです。産地って、職人が近くにいることで仕事が成立する仕組みのことだと思っています。個々の職人工房が仕事を増やしていくにはどうすれば良いかということを今議論しているんですが、各企業が世界を舞台に競争していくことが、結果的に産地を強くしていくのかなと。産地という「言葉との距離」は感じていますね。

結局、市場ニーズは価格とスピードですので、そこを産地が意識できるのであれば強みが出てきます。最終的にお客様に喜んでいただくためにものづくりをするので、それを全部、産地内で作れたらスピードも上がり価格もコントロールできるかもしれませんが、産地内に限定することが足かせになってニーズに答えられないと、市場競争のなかで新たな仕事を受けることができず、結果的に職人に新たな仕事を依頼できないし、意味がないんです。」

伝統工芸という言葉に縛られない職人を育てる。ものづくりは自由でいい。

「技術が途絶えないための職人の育成は、喫緊の課題だと思っています。特に〈漆塗り〉の幅広い仕事ができる職人さんを育てる必要性を強く感じています。やる気のある方なら連絡お待ちしていますが、鯖江で生まれて漆器のことが好きな方だと嬉しいです。親が漆器をやっていてそういう遺伝子を持っている方は、身体に染み付いている気がします。自分だって親が漆器の仕事をやっていなければ、もう辞めちゃっているかもしれないですね。もちろん絶対鯖江や福井じゃなければならないことはありませんよ。」

山久漆工の仕事はお客様からの要望に答えるプロフェッショナルな技が光ります。ものづくりが好きで好奇心や探究心がある方には、ただ作るだけではない、やりがいがある会社だと感じました。

「器も作り、枝葉の仕事もやり、先の仕事も作る。漆器の世界を泳ぎきるにはこのやり方しかないと思っています。方向性を決めて全振りするなんて怖くて出来ません。やったことを無駄にしないように、しっかりと形にしていきます。いろんな引き出しを器用に持っていて小回りがきく、少数精鋭企業ですね。」

漆器で、東京や世界を目指したい。
そんな思いを抱かれた方はぜひ下記に連絡をしてみてください。

【連絡先】
山久漆工株式会社(webページはこちらから)
漆器のお話全300話はこちら
〒916-1222 福井県鯖江市河和田町20-4-6
TEL:0778-65-0101
FAX:0778-65-2373
MAIL:kasane@yamakyu-urushi.co.jp

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です