寺田千夏 | 東大阪出身のCITYガール。彼女の鯖江暮らしとは。

いつもは鯖江市にある魅力的な仕事を紹介しているこのwebサイトですが、働くのは良いけど、住むのって大変なんじゃないか……と考えておられる方もいるのではないでしょうか。

生活環境を変えることはそう簡単ではありません。仕事も暮らしも、すべてが理想通りというのは難しい。いざ住んでみると、その土地の魅力の裏に厳しさが隠れていることもあります。

実際、鯖江市に移住した人たちは、何をきっかけに移り住み、どのように暮らしているのでしょうか。それぞれ全く異なる道を辿ってきた、8世帯の方のストーリーを紹介します。

 

デザインが大好きだと気付いた学生生活

 

今回お話を伺ったのは、河和田町に事務所を構える、デザインスタジオTSUGIのアートディレクターを勤める寺田 千夏 (てらだ・ちなつ)さん 。

大阪府東大阪市出身で、大学生の時に河和田アートキャンプに参加。2006年に初めて鯖江を訪れ、それから4年間、大学卒業まで毎年キャンプに参加。大学卒業後は京都でデザイン事務所に就職をした後に、転職を機に2015年に鯖江へ移住をされました。

 

初めて鯖江を訪れてから14年目、鯖江へ移住して5年目。

寺田さんと鯖江のつながり、鯖江へ移住にするまでの寺田さんの人生もお話をしていただきました。

幼い頃から、お小遣いをもらうと情報誌を買っていたくらい雑誌が大好きだった寺田さん。

「雑誌は、ページをめくると、大きな文字や小さな文字、カラフルなイラストや写真が飛び込んでくる。ありとあらゆる娯楽が広がっているエンタメ感を眺めるのが大好きでした。見様見真似で学級新聞を作っては『私、このクラスのエンタメ担ってる……!』と自己満足に浸っていた小学生時代です(笑)」

笑顔で雑誌への想いを語ってくださった寺田さんは、中学高校でもずっと雑誌が好きで、漠然と雑誌を作る人になりたいと思っていたそうです。

編集者、デザイナー、ライター、未来の職業は分からないけど、まずは雑誌を作る人へ近づくため、京都精華大学人文学部社会メディア学科へ入学をしました。

「学部関係なく活動の記録をまとめた冊子が作れるよ!」

当時、大学の友人に河和田アートキャンプに誘われ、冊子が作れるということを聞きつけ「チャンスだ!」と思った寺田さん。アートキャンプは自分にとって大きなターニングポイントだったと話します。

「すぐにでも河和田アートキャンプに入って冊子を作ろう!と思いました。

アートキャンプに参加した夏休みの1ヶ月間は、学生の活動や地域の方の取材、撮影、イラストを描いたり、レイアウトをしたり色んなことを経験させてもらいました。」

「冊子を編集していて一番幸せだったのは、イラストレーターのソフトを使って誌面のレイアウトをしている時でした。私、デザインをするのが好きなんだ!デザイナーになりたい!と、雑誌を作る人からデザインする人になりたいと未来が明確になりました。」

 

突然の会社倒産、デザインが好きという気持ちを抑えながら過ごした日々

 

大学を卒業後は、京都のデザイン事務所にて、グラフィックデザインとエディトリアルデザインに従事した寺田さん。

「デザイン専攻では無かったのですが、デザイナーとして必死に働いていました。ところがある日、社長室へ呼ばれて行くと、社長が土下座をして待っていたんです。『今日で会社をたたむから帰ってくれ』と。弁護士さんに書類を渡され、『会社が潰れました。お給料も払えませんサヨナラ!』と即日で無職になりました(笑)」

突然の出来事でお金もない、貯えもない状態になったという寺田さん。

この際デザインから離れてみるのもありかなと思い、コールセンター、民宿、ガラガラ景品売り場の売り子、花壇に花を植えるバイトなど職を転々としながら、その日暮らしで生活を繋いでいました。

「デザインが好きという気持ちはずっとありました。2年近くその日暮らしの生活を続け、楽しいけれどそれなり過ぎていく日々に、このままでいいのかとモヤモヤが募っていきました。やっぱりデザインやものづくりに関わる仕事をしたいと思い、老舗雑貨店の求人を見つけ、『ここに行けば自分の人間力が上がるかもしれない!』と思い履歴書を送りました。」

 

老舗雑貨店への就職か、学生時代からの仲間の誘いか。母の言葉で決断。

 

2014年の冬、老舗雑貨店への転職活動も順調に進み、いよいよ最終面接というときに、大学の同期であり一緒にアートキャンプに参加をしていた、TSUGIの代表である新山さんから、『鯖江でサークル活動をしているTSUGIを来年法人化しようと思っている。そこの立ち上げに加わらないか』

という話が寺田さんの元へやって来ました。


(新山さんの結婚パーティーで司会をしたときのお写真)

「普通に考えると、内定を受けていた雑貨店を選びますよね(笑)」

当時をそう振り返る寺田さん。大きな決断が迫られていました。信頼しているお母さんに相談をすると、鯖江での仕事を後押しされたそうです。

「雑貨店は老舗だからこその土壌もあるし、環境もいいだろうし、安心ではある。一方TSUGIは、これからスタートする会社だから何もわからない。きっと苦しいことも多いと思うけど、鯖江は縁のある場所。友達が誘ってくれたんだし、その道も面白いんじゃないの?」

このお母さんの言葉で、TSUGIの社員として移住を決意されたとのこと。

 

TSUGIでデザインの仕事を再スタート

 

(京都→鯖江へ引越の日。 京都のシェアメイトと鯖江から引越しを手伝いに来てくれた友人たち)

河和田アートキャンプをきっかけに、一足先に鯖江へ移住、仕事をはじめていた新山さんに加わり、学生時代から親しみのあった鯖江で大好きなデザインの仕事を2015年から再びスタートした寺田さん。四六時中デザインをしていた5年間だったと振り返ります。

「京都での仕事の仕方とは全く違う環境だったので、周りの状況や土地に馴染むことに必死でした。せっかく可能性大爆発の場所にいるのに、自信の無さから自分で可能性を狭めていました。

昨年は働き方を見直すきっかけもあり、少しづつデザインワーク以外のことにも時間を費やしています。」

寺田さんのライフスタイルも、鯖江での生活を重ねるに連れて徐々に変化していったといいます。

「昨年から、趣味のぬいぐるみ作りを始めています(笑) 手を動かしていると、思いもよらない形が生まれます。クライアントワークでは、形に落とし込むまでにヒアリング、リサーチやコンセプトなど入念な設計が必要ですが、ぬいぐるみは手を動かしながら出来上がる造形に素直に良い色、かわいい、といった感情が生まれます。本能的に喜べる瞬間がすごく楽しい。」

(寺田さん作 ウサギとピーナッツたち)

「ぬいぐるみ作りによって、表現の可能性が広がった気がしています。デザインもものづくりも手を動かすことは同じなので、どちらも続けながら良いバランスが取れるいいなと思っています。」

寺田さんが培って来た造形力で、魅力的なぬいぐるみが製作されています。すでに、段ボール箱3箱分くらいのぬいぐるみたちが誕生していて、少しづつ販売もスタートしています。

 

CITY生まれが感じる、鯖江の暮らし。

 

大阪に生まれ、京都で仕事をして、東京ほどではないけど、いわゆる都会で暮らしてきた寺田さん。都会の暮らしと鯖江の生活スタイルの変化について聞いてみました。

「私めっちゃCITYが好きなんですよ。繁華街でのウィンドウショッピング、街中に溢れる広告、展覧会やイベント、時差なくトレンドを感じられる雰囲気が大好きなんです。なんでもある都会の暮らしが当たり前の環境で、これまでの人生を歩んできました。」


(大阪カンヴァスにて47人のオバチャーンとの記念撮影)

鯖江に移住してからは、今まで当たり前だった日常が非日常に変わり、以前よりも情報を収集することが習慣になったという寺田さん。

「都会では自分からアクションを起こさなくても、勝手に新しい情報が向こうからやってきます。けど、ここでは自分から出向いてアクションを起こさないと、そんな情報には出会えず、知らないまま。」

「月に1回は県外へ出るようにしています。都市と地方、両方の時間の動きを肌で感じることで、それぞれの良さや変化に気付くことができます。デザインをする上でも良い刺激になっています。鯖江に来なければこんな気持ちは生まれていなくて、都会は暮らすところでは無いなぁと思い始めています。」

「都会ではどれだけ声をあげても、届きにくい。届いたとしても、形になるまでめちゃくちゃ時間がかかります。ここでは、声をあげればすぐ形になるとか、誰かが賛同してくれるとか、自分はこの町の一員なんだ、町を作っている一人なんだという意識はすごく芽生えました。」

 

人との距離が近くてイヤだった。打ち解けるまで。

 

移住して5年目。現在、事務所がある河和田地区の印象や魅力について語っていただきました。

「魅力は、よく移住者の方が言われることだと思いますが、人との距離がめちゃくちゃ近いところです。ですが……、しばらくはすごく嫌でした。赤ちゃんのイヤイヤ期状態でした(笑)」

 

「京都で働いていた時は、生活と仕事の間に大きな境界線があり、生活の中にクライアントや上司が登場することなんてあり得ませんでした。ところがこちらでは、めちゃくちゃプライベートについて突っ込まれるし、いろんな場所で遭遇する。

『昨日ユニクロにおったな』『いつ結婚するねん』『休日なにしてるん』

相手としては、気にかけてくれての言葉だと思うんですけど、常に『TSUGIの寺田』状態で生活をしなければいけないのか、としんどかったです。」

境界線がなくなる大きなきっかけとなったのは、2015年の“河和田ホラーナイト”。河和田ホラーナイトとは、河和田小学校のPTAのお父さん方が企画してラポーゼ河和田や河和田小学校の体育館で開催された手作りのお化け屋敷です。

「河和田にお住いの方に声をかけてもらい、30~40代の地元のお父さんたちと一緒に、ホラーナイトの準備作業をするという機会ができました。移住をして初めてTSUGI以外の活動の場でした。TSUGIの立ち上げ当初、地元の方からの印象は、全員移住者のデザイン事務所ということで、ある意味目立つ存在だったと思います。」

メディアでもTSUGIや代表の新山さんを取り上げる中、寺田さん個人を見てもらうことは少なかったそうです。

地元のお父さんたちの中に飛び込み、ホラーナイトでの交流を通じて、TSUGIの人として遠巻きで見られていた感じから一個人として見られ、いろんな方との接点がつきやすくなりました。

「みんな悪い人じゃない、ほんとに良いお父さんたち。最初は無言で作業をしていたのが、ポツリポツリと会話が増え、他愛もない話で笑えたり、仕事関係なくイベント成功を目指すことで団結されていく感覚。河和田で働く町の一人として話をすることで、『私はTSUGIの人』と身構えていた肩の力が抜けました。

また、河和田は職人の方が多いので、会場や衣装が本気のクオリティ。全力で楽しんでおられる姿を見て、私も負けじとメイクに本気を出し仲間にいれてもらいました(笑)。力が抜けたことで、徐々に境界線もなくなってきました。」

「アートキャンプに参加していたときもそうでした。学生とはいえいきなり取材にいくと、地域の方も誰やねんとなりますよね。

取材ができたとしても、そこには一方的な乾いた関係性しかなくて。毎日の挨拶から顔を覚えてもらうこと、誠意を伝えることで、顔もわからない学生から顔見知りの寺田さんへ、よく家にくる千夏ちゃんに。双方向愛のある関係性になったところで取材を始めると『実はね、』と面白いネタを提供してもらえたり。

やっぱりお互いどんな人間なのかが垣間見れると、楽でいれますね。イヤイヤ期の時も勝手に身構えて、自分で壁を作っていただけなのかもしれません。」

河和田へ移住してきて、5年。仕事や、暮らしを通してコミュニティが徐々に広がってはいますが、まだまだ話ができていない人はたくさんいると寺田さんは話します。

「地元の同世代の方とコミュニケーションを取る機会が少ないので、もっと増やせていければなと思っています。あと、母のような強い女性になっていたいです。母は私が高校生の頃まで自営業で昼は定食屋、夜は呑み屋を一人で切り盛りしていました。みんなのオカンのような存在で、常連のおっちゃんが母に人生相談をしている場面を小さい時からずっと見ていました。

母のように幾つになってもパワフルで頼られるおばちゃんになりたいなと思います。将来は、河和田でスナックをして自分でコミュニケーションや文化が生まれる場を作ってみたいです。あわよくば、お客さんからデザインの仕事を依頼してもらえたらいいですね(笑)」

寺田さんが2006年に学生として河和田に来た時とは状況が代わり、移住者が多くなって来たと感じている寺田さん。

「いろんなスタイルの移住者が増えていたことにとても驚きました。移住者同士の輪も広がっていたし、仲間がこんなにできると思ってもいませんでした。こちらでできた仲間は友人であり同志という感覚です。本当に頼りになる人たちに巡り合えて感謝しています。」

TSUGIでのデザインの仕事、移住者や若者との関わりが輪を広げ、鯖江が寺田さんのCITYとして作られていくのか楽しみです。

 

 

【寺田さんのお仕事】
TSUGI(webページはこちらから)

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